多才な方と言えば小椋佳氏

昨日の記事にも書きましたが、「多才」、2足のわらじとして有名なのは、小椋佳氏ですね。第一勧業銀行(現:みずほ銀行)にお勤めでした。
小椋佳氏が、静岡県の浜松市の支店長に就任になった当時、競合銀行に後輩が勤務していました。ある時私に電話、「先輩!お客様が他行に取られていって大変なんですよ。ずるいですよ。歌うんだもん(涙)」
はは、笑うしかありません。
まだ?もう?不惑の年代の2代目社長が仕事、業界、日常のいろいろなことを語ります。 (IE7推奨)
2008年4月14日

昨日の記事にも書きましたが、「多才」、2足のわらじとして有名なのは、小椋佳氏ですね。第一勧業銀行(現:みずほ銀行)にお勤めでした。
小椋佳氏が、静岡県の浜松市の支店長に就任になった当時、競合銀行に後輩が勤務していました。ある時私に電話、「先輩!お客様が他行に取られていって大変なんですよ。ずるいですよ。歌うんだもん(涙)」
はは、笑うしかありません。
2005年9月30日
もう一つ、クレーム処理関連の話題。
クレーム処理で一番感じたこと。それは、昔勤めていた「銀行」という業界の異質さ。。。
例えば、担当者が日にちを勘違いして、必要な(約束した)日時よりも数日早く融資をしてしまったとする。さて、どうでしょうか?きっと「申し訳ありません。」で終わりである。または、「今度、何かで埋め合わせしますから」と空手形を切る。取引先も、絶対に埋め合わせなんかしないくせにと、思いながらも「気をつけろよ!」で済ます。不思議だと思いませんか?
仕組み的には、融資を取り消しして、再度実行をする方法もあります。でもそんな面倒なことはしません。普通の商習慣で行けば、次回はペナルティだから、金利は10%ダウンだぞ。なんてやり取りも可能ですが、そんなこともありません。
私も、銀行員の時は気がつきませんでした。最近は大きな企業への対応では銀行も違うケースも出てきています。しかし中小企業への対応の場合、まだまだ、「謝れば済む」という「クレーム処理」が実在するのです。そして、当の銀行員も本当に「謝れば済む」「済ますのが”できる”銀行マン」と思っているところに根深さがあったりします。
2005年9月19日
休日なので、閑話。
銀行を退職して、社長就任した当時、良く取引店の支店長から「なにか、変わったことはありますか?」と聞かれた。私は、同じく”全力疾走”していますよ。と答えていた。
その意味は、銀行員の時と、社長業の時では、走り方は一緒である。「全力疾走」。銀行員の時も、それなりに頑張っていたし、今も頑張っている。しかし、気持ちは違うかも知れない。
銀行員の時は「本部、支店長席、役席に綿密に詰められ、目標を達成するために全力疾走していた。それはあたかも、槍で後ろからつつかれるような感覚である。走れ走れと言われていた。」、社長業はどうか?「目標は、自分で設定する。変更することも出来る。しかし、自分の会社がこうありたいという思いは強い。つまり、毎日毎日、こうありたいという理想というか目標に向けて、手を精一杯伸ばしてつかもうと全力疾走しているのである。しかし届かない。」自分で走って、みんなついてこいと言うのは、ベテラン社長の言葉であり、今は私も少し考えが違ってきたが、2世経営者が社長に成り立ての当時は、本当に何かをつかむために必至だった気がする。
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2005年9月10日
またまた、銀行の話で恐縮です。私が勤めはじめた頃は、土曜日も出勤でした。ちょうど途中で週休2日制になりましたから、その両方を体験したことになります。変わった当時、出納等(資金ともいう)の内勤から営業(渉外)になったのが嬉しく、また、銀行員はお客様の仕事内容を十分に理解するべきだという考えを勝手にもっていましたので、土曜日が休みになっても、私服でお客様の会社に遊びに行ったりした記憶があります。当然、中小企業は土曜日も営業していましたし、取引先の社長も(珍しい奴と)可愛がってくれました。
今の銀行員に置き換えるとどうでしょうか?確かに、あまりお客様と親密な関係になることによって「不正」がおこりかねないと、禁止されているかも知れません。でも、日常の業務が忙しい中、本当に会社のことを理解しようとか、いろいろ興味を持って調べようとか?そういう努力をする銀行員っていなくなっていませんか?(そんなことをする、時間的な余裕もないようですが・・・)本当は人と人の理解が仕事に繋がっていくと思うのですけどねえ。昔から言われてますよね「要は自分を売り込むんだって。」でも、担当者が変わるたびに、一から業務内容を説明しなければならない。最近は自分から会社(客)のことを知ろうともしないとか・・・・・ありませんか?
私達が通常のビジネスベースで行うことを、(最近の銀行は)怠っているように見えるのは私だけでしょうか?
たまには、気軽に遊びに来ればいいのに・・・・
2005年9月 8日
銀行退社の話が続いていますが、雑談コーナーです。
さて、決心して銀行を辞めることを上司に言いますと、ありがたいことに止めてくれました。また人事部にも呼ばれて事情を話して理解をいただきました。本当にありがたかったと思っています。ついでに、当時、支店内には今の「奥様」がいまして、(まあ、行内恋愛という奴ですが・・)つき合っておりました。
時代は、バブル崩壊しはじめた頃と言えましょう。
お客さん曰く「お前が実家の都合で、辞めることはワカッタ。でも、本当は何をやらかしたんだ?」(@^^)ゞ ポリポリ
支店長曰く「お前が辞めるのは、仕方ないけど、あの子(奥様)を連れて行くのは(支店の業務の都合上)勘弁してくれ。」(@^^)ゞ オイオイ
上司曰く「銀行の都合だが、お前は後任と重ならないので、直接の引き継ぎが出来ないんだ。わかるか?だから、退社後に出勤してちゃんと引き継いでくれよ。」(@^^)ゞ ウソ・・・
食堂のおばちゃん曰く「(退社後も引き継ぎで支店にいると)まだいるの?可哀想だから食事だけは用意してあげるわ。」(/_;。) 感謝・・
本当に、皆々様方ありがとうございました。大感謝です。
2005年9月 7日
平成元年に、旅行先の水戸で先代の社長(父)が、 くも膜下出血で倒れました。ご存じの通り、1/3が死亡、1/3が直る、1/3が障害が残る・・・という病気です。搬送された病院は国立水戸病院、脳外科では定評のある病院が幸いして、長い入院の後に回復いたしました。しかしながら、昔の様な、父の歯切れの良さは無くなってしまいました。そのころから、跡を継ぐことが脳裏に浮かんだのだと思います。しかしながら、私もその時は銀行の支店2ヶ店目に転勤したばかりで、戸惑うばかり。実績も思ったようにいかず、落ち込んだ時期でもありました。
そんな様子を見ていたのか?それとも父は、自分の会社は大丈夫だと思っていたのか?「辞めなさい」とは言わないんですね。不思議なモノです。前述の通り、父も回復し、私も店の環境にも慣れ、実績が上がるようになりました。実績面では、自分で言うのもお恥ずかしいですが、店の業績の要になることができたと思っています。当時の定期預金獲得の全行員のランキングでもTOP5に入りましたから。でも、そのころですよ。「入らないか」って言われたのは。平成3年のことです。
結局、実績が厳しいときに辞めて、他の道に進んでも自分にとってはマイナスであったと思っています。(私にとってはですよ。タイミングは人それぞれですから。)自信の持てる行動を積み重ねた時点で今の会社に入ったのは、本当に良かったです。しかし、それが偶然であったのか?父に見られていたのかはわかりませんが(@^_^)ゞ ポリポリ
2005年9月 6日
私募債等銀行の話が続いていますね。実は自己紹介でも書きましたが、私は平成3年まで某都市銀行におりました。良く、銀行で修行をされたんですねと言われるのですが、当時は全く父(先代)の会社に入るとは思っていませんでした。でも、「長男」って弱いですよね。父が身体をこわした時に「入らないか?」って言われて「わかったよ」と言ってしまったのですから。
今から考えると、小さい頃から「(長男の)お前に頼むぞ」という洗脳がったような気がします。
さて、なんで銀行に入ったかですが、これまた父親の影響なんです。
どうも中学卒業の父親にとって「(大学卒の多い)銀行員」は自分と最も遠い存在、ある意味苦手な存在だったようです。羨望もあったのかもしれません。
私は、大学4年の時に最初に「ダイヤモンド自動車」の内々定をとりました。でも父はいい顔をしません。次に「スノーマーク乳業」の内々定。私は「マーケティング」専攻だったので活かしたかった。という選択でした。でもいい顔をしない。そこで父から一言。。「お前は、銀行なんて無理だよな。」
言われると燃えるんですね。内定をとってから、どこに行くか決めようと!最終的には富士山のマークの都市銀行に内定をもらいました。私の年代の方はご存じの通り、内定をとると言うことは、”拘束”状態になります。はは(^ ^;)ゞ そのままお世話になった次第です。
でも先に内々定をいただいた2社は、ご存じの通り大変なコトになっています。結果として、良かったのかも?父親にしてやられたのかも知れません。